政治的闘争に参加する意欲を失った

 激動の2020年が過ぎ去った。

 2020年は政治の力が求められた時代であった。コロナが流行し始めた当初から、国境管理や都市封鎖(ロックダウン)、医療保険制度などを巡り、国家の復権が盛んに唱えられた。各国で政府による経済援助政策が行われた。飴と鞭の両面で政府に与えられた合法的権力が発揮された。

 にも関わらず、私は政治を近くに感じなかった。国会では、路上では、SNSでは、ブログでは、毎日のように政治的な闘争が繰り広げられている。何が正解か、何が正義か、何が理想かを巡って、闘争が繰り広げられている。しかし、この一年間、徐々にそのような闘争から身を遠ざけるようになっていった。

 なぜだろうか。政治的闘争に参加するためには、それだけの熱量が必要だ。熱量の源泉は何か。自身の欲求を理解し、自身の政治的立場を確定することだ。欲求は複合的なものであり、経済的欲求も道徳的欲求も含まれるが、いずれにせよ自身の欲求を理解するためには、自分自身を理解する必要がある。私にはその作業ができなくなってしまった。

 自分が何者か分からず、葛藤の中に生きる人間にとっては、政治的闘争を遠くに感じるものであると考える。政治的闘争の中にいてよく聞くのが、なぜ近頃の若者は政治運動をしないのか、なぜ経済的に貧しい人がデモを行わないのかという愚痴である。しかし、葛藤の中で生きる人間にとっては、自分が何を欲していて、どのような正義を目指しているのかを巡っても、葛藤の中にいるのである。

 私は政治的闘争に参加する意欲を失った。しかし、政治的闘争に参加しないからといって、政治と無関係に生きる訳にはいかない。政治を所与のものとして、その奔流に身を任せるのか。無理やりにでも自身の立場を仮定して、政治的闘争に参加すべきか。どちらの生き方も無責任と言われるだろうか。

世論調査と選挙結果のズレはなぜ起こるのか?~アメリカ大統領選をうけて~

はじめに

2020年11月3日、今後4年間のアメリカの行く末を左右するアメリカ大統領選挙の日を迎えた。事前の予想ではバイデン氏が優勢と報じられていたが、このブログの執筆時点ではどちらに転ぶか分からない、まさに大接戦となっている。

さて、今回多くのメディアがバイデン氏の優勢を報道していたことから、「またマスコミは世論調査を外したのか」との感想を抱く人も少なくないだろう。実のところ、本当に世論調査が実際の結果から大きく外れているかどうかは、詳しく分析してみないと分からない。この記事では、そもそも世論調査と実際の結果にズレが生じるのはなぜかについて、なるべく分かりやすく説明する。

 

世論調査と実際の結果のズレの背景には、以下の5つの原因があると考えられる。

 

①調査対象者の選び方に問題がある

②統計的な誤差の問題

③調査対象者に選ばれてた人の中で、回答に協力してくれる人に偏りがある

④回答者が正直に回答してくれない

⑤直前まで投票先を決めない人の動きが読めない

 

順番に詳しく見ていこう。

 

①調査対象者の選び方に問題がある

これは専門的な言葉を使うと、標本抽出の方法に問題があるということだ。

世論調査をするといっても、有権者全員に調査するには時間も人手も足りない。(選挙のたびに何億人に調査することは不可能)
そこで、なるべく有権者全体の縮図となるように調査対象者を選ぶプロセスが必要である。

この場合、有権者全体のことを母集団、選ばれた調査対象者のことを標本と呼ぶ。
調査を正確なものにするためには、母集団(有権者全体)の縮図になるように標本(調査対象者)を抽出することが必要だ。調査対象者に偏りがあってはならない。
非常に重要なプロセスである。

マスコミの世論調査の主流は電話による調査である。この場合、電話番号を無作為に発生させることでランダムに調査対象者を選んでいる。
しばしば「携帯電話が含まれないから不正確」との主張を見かけるが、現在では多くの世論調査で携帯電話を含めた調査が行われている。*1
もちろん電話を保有していない人は調査対象から漏れる訳だが、そのことによる誤差は無視できる程度であろう。

 

 

②統計的な誤差の問題

いくら有権者全体の中からランダムに調査対象者を抽出しても、たまたま調査対象者がどちらかに偏ってしまうことはある。
くじ引きでたまたま当たりが連続して出るのと同じように。
その「偶然の偏り」がどの程度の確率で生じるのかを表すのが、誤差範囲である。

これは世論調査を行う以上、仕方のない問題である。
誤差を小さくするためには、回答者の数を増やすしかない。
しかし、回答者の数が一定数を超えれば、誤差範囲はそれほど変わらなくなる。
(日本であれば、だいたい1,000~2,000人が目安となる)

むやみに回答者数を増やすよりは、①で述べた調査対象者の選び方の方が重要である。
通常の世論調査では誤差範囲(95%信頼区間)は±2~4%程度であることが多いように思う。
誤差に対する理解を深めるためにも、マスコミは世論調査時に誤差範囲を同時に報道するような取り組みが必要かもしれない。

 

③調査対象者に選ばれてた人の中で、回答に協力してくれる人に偏りがある

ランダムに調査対象者を選んだとしても、その全員が回答に応じてくれるわけではない。
調査対象者のうち、どれだけの人が回答してくれたかという回収率の問題である。

例えば電話調査の場合を考えてみよう。
 ・たまたま家にいなかった
 ・携帯電話に知らない番号から電話がきたら放置する
 ・答えるのがめんどくさい
 ・時間がない
理由は色々と考えられる。

問題なのは、回答してくれる人が何らかの属性に偏っている場合である。
よく指摘されるのが、高学歴な人ほど世論調査に回答しやすいとか、普段から政治に興味を持っている人ほど回答しやすいといったことである。
そうした場合、回答者が高学歴の人や政治に興味のある人に偏ってしまい、有権者全体の縮図とはならないのである。

そのような偏りを避けるためには、回答者の割合をあげることが大切であると考えられる。
電話調査であれば、繰り返し電話をしてみるのがよいかもしれない。
訪問での調査であれば、何らかのお礼を渡すといったことも考えられるかもしれない。

 

④回答者が正直に回答してくれない

ランダムに対象者を選んで、その対象者が調査に応じてくれたとしても、正直に回答してくれるかは別の問題だ。
では、正直に回答してくれないのは、どういう場合だろうか?

一つに、社会的望ましさのバイアスと呼ばれるものがある。
つまり、回答者は本心で支持している選択肢ではなくて、社会的に望ましいとされている選択肢を回答してしまう場合があるということだ。

有名な例に、1982年のサンフランシスコ州知事選におけるブラッドリー効果がある。
この選挙では、黒人のブラッドリー候補と白人候補が争い、事前の世論調査ではブラッドリー候補が優勢であった。しかし、実際の選挙結果は白人候補の勝利であった。その理由について、回答者が人種差別主義者だと思われるのを恐れ、本心とは異なる回答をしたのではないかという解釈がなされた。社会的望ましさのバイアスの典型的な例とされる。

では、社会的望ましさのバイアスを小さくする工夫はないだろうか。
例えば面接調査では、直接聞き取る方式と電子機器に入力してもらう方式では違いがあるかといった研究も行われている。*2
ちょっとした回答方法の工夫で小さくすることができるかもしれないので、考える価値がありそうだ。

 

⑤直前まで投票先を決めない人の動きが読めない

最後に、回答者の中には直前まで投票先を決めない人がいるという問題があげられる。
前回2016年の大統領選では、そのような有権者が多かったと指摘される。
一方、今回の大統領選では比較的多くの有権者が、早い段階で投票先を決めていたと指摘される。
直前まで投票先を決めない人が多いと、その人たちの動向で選挙結果が左右されることになり、世論調査と実際の結果の差が大きくなる可能性がある。

 

最後に

この記事では、世論調査と実際の結果ズレの一般的な要因を説明しただけで、今回の大統領選での世論調査について具体的な分析はしていない。
そもそも、今回の大統領選において世論調査がどの程度外れていたかも分析していない。
ここで説明した要因が今回の大統領選であてはまるかどうかについては、皆さんに考察して頂ければと思う。

 

 

*1:朝日新聞「『RDD』方式とは」

https://www.asahi.com/politics/yoron/rdd/

*2:西澤由隆・栗山浩一「面接調査におけるSocial Desirability Bias:その軽減へのfull-scale CASIの試み」『レヴァイアサン』 (46) 51 - 74,2010年

なぜ「”中流”東大生」に嫉妬するのか

「”中流”東大生」が炎上しているとかいう話を見かけたので、なんで炎上しているのか、以下私の思うところを書き連ねる。

 

後述する理由により、個人を晒す形にはしたくないので、発端となったツイートは貼らない。

 

なぜ「”中流”東大生」に嫉妬するのか。

以下の内容は全て、何らかの裏付けがあるものではなく単なる想像であるが、私なりに仮説を考えてみた。

 

私が思うに、人は、自分が欲しいもの/欲しかったものを他人が持っているという状況に対して、嫉妬する。しかし、皆さんが東大生になりたかったとして、すべての東大生に等しく嫉妬するわけではないし、持っている才能に比例して「嫉妬度」が上がるわけでもない。では、「”中流”東大生」がその辺の東大生より嫉妬を集めている原因は何なのだろうか。

 

その原因として多くの人が挙げているのは、「彼女は本当は中流ではないのに中流を名乗ったから」「彼女の意識が庶民とかけ離れているから」ということだ。しかし、彼女の意識が一般人とかけ離れていようが、それ自体は自分と何の関係もないことだ。原因は、もう一つ深い所にあるように思う。

 

その原因は、無意識に他人の人生や家庭を「ランク付け」していることではないだろうかそのことによって、自分の生き方を「否定された」と感じる人が出てくるわけだ。そのことによる反発は、単なる嫉妬というよりは、自分の生き方を否定された怒りといったものに近い。その分、彼女のツイートは激しく炎上することとなったのだろう。

 

では、具体的に「ランク付け」とは何か。

彼女のツイートには、例えば以下のような前提が内包されているように感じる。

・東京に実家があることは、地方に実家があることよりランクが上

・文化レベルが高いことは、文化レベルが低いことよりランクが上

・小学生で留学することは、留学しないことよりもランクが上

・東大に入ることは、他の大学にはいるよりもランクが上

 

実際はそういうつもりはないのだろうけれど、これらからは「ランク付け」が感じられる。確かに東京に住んでいることや、「高尚な」文化に触れてきたことや、小さい時から海外経験を積んできたことは、東大に入る上ではアドバンテージだろう。そして、東大に入ることは、「地位」の高い職業に就く上ではアドバンテージだろう。しかし、それらは全て、「地位」の高い職業につくことを「勝ち組」とみなし、「勝ち組」となるためのアドバンテージで家庭や人生の優劣(=ランク)を決める東大的価値観」を前提とした話である。

 

さて、このような「ランク付け」を前提としたツイートを見たとき、「東大的価値観」に縛られない生き方を目指す人々や、「東大的価値観」で「低ランク」とみなされた人々は何を感じるだろうか。例えば地方に住んでいる人は、東京に住んでいることが地方よりもアドバンテージであるという前提に対して、違和感や怒りを感じる。留学を経験したことのない人は、留学が人生のアドバンテージであるという前提に対し、違和感や怒りを感じるだろう。

 

しかし、ここで議論を終わらせるのではなく、もう一つ付け加えたい。今回「”中流”東大生」に対して嫉妬したり、怒ったり、批判したりしている方々は、単に「”中流”東大生」だけに怒りを感じているのだろうか。それは、「ランク付け」に縛られない人生を歩みたくても、やはり「ランク」が気になってしまう自分自身への怒りもあるのではないか。様々な場面で「ランク付け」を行う社会全体への怒りでもあるのではないか。

 

私はこの議論で、「”中流”東大生が悪い」という結論にはしたくない。「東大的価値観」「ランク付け」に縛られない生き方を受け入れるには、社会全体が変わる必要があると考える。

 

 

<補足>

この文章では「東大的価値観」という単語を何度も用いたが、東大生が全てその価値観に縛られているという意味ではない。

中田敦彦氏のYouTubeコンテンツへの批判に対する反論

 Twitterの方で中田氏批判に対し少し反論めいたことを書いたのだが、Twitterでは字数制限がまどろっこしい。ここに独り言という形で自分の考えをまとめておく。予め書いておくが、私も中田氏の動画に不正確な点があることは認める。そして、専門家の皆様に無償で中田氏のコンテンツを監修しろなどと失礼なことをお願いするつもりもない。その上で私は、中田氏の動画に対してアカデミズムを振りかざし、コンテンツごと葬り去ろうとする態度に対して疑問を感じるのである。

 まず、中田氏を批判している知識人たちが間違っている最も大きな点は、学術界における知識とYouTube界における「知識」を完全に同じ位置付けで捉えている点である。学術界での知識とYouTube界での「知識」にどのような差異があるのか。ここでは3点について指摘したい。

①コンテンツの質的な差
 言うまでもなく、学術界で要求されるアカデミックな質は高いレベルにある。一方のYouTube動画だが、何処のまとめサイトから引用して来たのか分からないような動画も多く、平均的な質が圧倒的に低い。その中で、中田氏の動画は誤りは含まれているものの相対的に質が高い。

②コンテンツの受け手の差
 学術界での論文の読み手はアカデミックな教育を受けた層である。そのため、アカデミックな文章を読むスキルを持っている。
 一方のYouTube界であるが、多くはそのようなスキルを持たない大衆である。つまり、学術界でのレベルと同じレベルの動画を提供されたとしても、それを理解することは難しく、そもそも最初から視聴されないだろう。

③コンテンツの供給者の性質
 学術界での書き手は主に国からお金を貰っている研究者である。そのため、一般大衆の需要を気にすることなく論文を書くことができる。YouTubeで一般大衆にアカデミックな分野を分かりやすく説明して広告収入を得なくとも、もっと確実な方法で給料を貰えるのである。その意味では、研究者がYouTubeに動画投稿するインセンティブは0である。
 一方で、Youtuberは広告収入に頼る必要がある。コンスタントに収入を得るためには、それなりの頻度で動画投稿する必要がある。その制限の範囲内で動画の質の向上を図る。

 以上のような学術界とYou Tube界の差異を考慮に入れて、もう一度中田氏のコンテンツについて考えてみる。中田氏の動画の特徴は、YouTube界で相対的に質の高い動画を、それも一般大衆の需要に合致した動画を、コンスタントに上げ続けているという点にある。それは学術界の論理では理解できないことであろうが、YouTubeと大衆娯楽という観点から見れば非常に画期的な存在であると考える。

 では次に、考えられる反論について1点取り上げる。
 世の中には一般向け書籍のような専門家によるコンテンツも流通していて、中田氏の動画のようなものがなくとも、一般人はそういったものに頼ればよいという反論。これは、そもそも中田氏の動画の視聴者層を誤って捉えている。今は大学生の半分は本を読まない時代である。本を読むことに対するハードルが高いのである。知的好奇心を満たそうと思えば、中田氏の動画より相対的に質の低いネット上の有象無象のコンテンツで事足りるのである。そのような中で、たとえ不正確であったとしても中田氏の動画には読書の世界への入口としての役割も期待できるのである。中田氏は自身の講義を正確性を保証するものとはしていないし、寧ろ本の紹介という形を取っているのだ。

 以上のような理由で、私はアカデミズムを振りかざして中田氏のコンテンツを叩き潰そうとする動きには反対である。しかし、だからといって現状の中田氏のコンテンツが最良の形という訳ではない。学術界の論理とは一線を画したYouTubeという制限の中で、如何に動画の正確性を高めていくか、今後の中田氏の課題となるだろう。
(追記1/17 至急中田氏側が具体的に取るべき行動としては、専門家による批判を受け入れ、訂正すべき点があれば訂正動画をあげることである。また、私は専門家による中田氏の動画の内容に対する批判反論は正当なものであると考えている。あくまでも、中田氏のコンテンツ自体を全否定し叩き潰そうとして、その視聴者を愚民であるかのようにあざ笑うことに対して批判しているのである。)
 
 最後に一言、中田氏の動画は「知性の敗北」などではなく、YouTube界には元から「知性なんてなかった」。
(追記1/17 流石にこう書くとYou Tubeに正確な知識に基づいた動画を上げている人に失礼かと思ったので、若干補足する。確かにそのような動画もあるし、それらは大切にしていくべきだ。一方、それらの視聴者は、既にアカデミックなスキルや好奇心を身に着けた者が中心ではないだろうか。新たな知的好奇心を開拓するという意味では、中田氏の動画も役割を果たしうると考える。)
YouTube界、ひいては大衆界での知的営みの芽吹きを消し去ることなく、「多少の間違いがふくまれていたとしても、それまで知らなかったことを理解出来て楽しい」という純粋な知的好奇心から育てていくべきだ。

訂正1/18 一部不適切な部分を訂正しました