政治的闘争に参加する意欲を失った

 激動の2020年が過ぎ去った。

 2020年は政治の力が求められた時代であった。コロナが流行し始めた当初から、国境管理や都市封鎖(ロックダウン)、医療保険制度などを巡り、国家の復権が盛んに唱えられた。各国で政府による経済援助政策が行われた。飴と鞭の両面で政府に与えられた合法的権力が発揮された。

 にも関わらず、私は政治を近くに感じなかった。国会では、路上では、SNSでは、ブログでは、毎日のように政治的な闘争が繰り広げられている。何が正解か、何が正義か、何が理想かを巡って、闘争が繰り広げられている。しかし、この一年間、徐々にそのような闘争から身を遠ざけるようになっていった。

 なぜだろうか。政治的闘争に参加するためには、それだけの熱量が必要だ。熱量の源泉は何か。自身の欲求を理解し、自身の政治的立場を確定することだ。欲求は複合的なものであり、経済的欲求も道徳的欲求も含まれるが、いずれにせよ自身の欲求を理解するためには、自分自身を理解する必要がある。私にはその作業ができなくなってしまった。

 自分が何者か分からず、葛藤の中に生きる人間にとっては、政治的闘争を遠くに感じるものであると考える。政治的闘争の中にいてよく聞くのが、なぜ近頃の若者は政治運動をしないのか、なぜ経済的に貧しい人がデモを行わないのかという愚痴である。しかし、葛藤の中で生きる人間にとっては、自分が何を欲していて、どのような正義を目指しているのかを巡っても、葛藤の中にいるのである。

 私は政治的闘争に参加する意欲を失った。しかし、政治的闘争に参加しないからといって、政治と無関係に生きる訳にはいかない。政治を所与のものとして、その奔流に身を任せるのか。無理やりにでも自身の立場を仮定して、政治的闘争に参加すべきか。どちらの生き方も無責任と言われるだろうか。